前橋公園です!!!

前橋公園は、明治38年日露戦役の記念を兼ねて建設された 市内最初の公園で、とうとうと流れる利根川を眼下にし、榛名山・浅間山・妙義山の山並みを望む絶景の場所に あります。園内には昭和34年、皇太子殿下のご成婚を記念して鶴舞う形の群馬県をかたどった「さちの池」をはじめ、野外ステージ ・芝生広場・中央児童遊園などがあり、市民の憩いの場として多くの方々に親しまれています。
初秋というには,残暑厳しい日だったのですが,利根川の緑・・・木々と芝生の緑・・・池の水面の緑の背景には・・・抜ける青空でした。

県庁の高い建物も,まぁ,OKですよね!
大渡橋を利根川の西側に渡って,その後,中央大橋を東進! で,橋から,まず,この公園を眺めました。そして,散策をしたのでした。

暑さのためか・・・あまり人は居なかったのですが,それでも,何人かが,子供連れで親水の場所で遊んでいたり,女子中学生が部活の後の休憩をしていたりしてました。
花の季節も素敵でしょうね・・・。「さちの池」というらしいですが,真ん中の噴水も素敵です。
夏を惜しむ様な陽射しに,透き通るような風でした。あまり多くの人が居ない中で吹き上がる噴水もまた,涼を呼び込んでいました。
←:柳原放水路で広瀬川から利根川へと流れがつながっています。その広瀬川よりには,発電所もあるようです。
噴水は天高く! しぶきがまぶしい色合いを見せてました。
利根川が緩りと流れていました。
←:レールを使った大聖牛!!

「聖牛は、1本の長い棟木とそれを支える3対の合掌木からなり、下部には蛇籠を載せる棚が設けられている。全体の姿は三角錐を横に倒したような形をしている。地域によって多少大きさが異なることもあるが、棟木の長さが五間(9m)のものを大聖牛【だいじょううし・だいせいうし】、長さ四間(7.3m)のものを中聖牛という。荒ぶる川と戦うために、場所によっては大聖牛よりもさらに大きく、より堅牢な牛がつくられたことも記録に残されており、それらは大々聖牛とか鬼聖牛などと呼ばれた。」

ということのようです・・・知らない言葉でした!
グルーンドーム前橋は・・・以前,室内陸上競技の国際大会があったことで,僕は良くその名前は知っていました。朝原さんとかがここを走ったのです!!
さて,水のカーテンをくぐって再び池の方へ・・・・・!
放水路をまたいで行きます。
さて,さちの池の北側は旧前橋競輪場の後を,公園に整地している最中でした。まだまだ工事中! その辺りに,臨江閣があります。

大手町三丁目に所在する近代和風の木造建築です。全体は本館、別館、茶室から成り、本館と茶室は県指定、別館は市指定の重要文化財です。本館は明治17年9月、当時の群馬県令・揖取素彦(かとり もとひこ)や市内の有志らの協力と募金により迎賓館として建てられました。
ここも工事中で入れませんでした。
別館は明治43年一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築です。また茶室はわびに徹した草庵茶室で、京都の宮大工今井源兵衛によって本館より2カ月遅れて明治17年11月に完成しました。



さて,この前橋公園のところには,丁度,大手町の交差点の角に東照宮があります。

説明によりますと・・・・以下のことの様です。

皆様がよく御存知の、久能山・日光を始めとする東照宮とは、日本の中世から近世にかけて百年間も続いた戦国時代を終わらせて江戸に幕府を開き、二百六十年もの平和な時代を築いた『徳川家康公』を御祭神としてお祀りしている神社を主に東照宮と称しております。前橋の東照宮は、当時の大名松平直基公が幕府より最初に賜った領地、越前勝山(福井県)にて西暦1624年に創建した神社でございます。江戸時代中期、松平家が越前勝山より各地の転勤を経て藩主として前橋城(現在の群馬県庁)に入城しましたが、城は利根川の大洪水により被害を受け、松平家は一時武州川越(埼玉県)に居住しておりました。この時に川越でご造営したものが現在の東照宮の社殿でございます。江戸時代末期に前橋城が洪水の被害より復旧し、松平家は川越より前橋城へ戻ることとなりました。これに伴い、東照宮は川越で一旦社殿を解体され、現在の地に運ばれて、明治維新を経て明治四年に再築されたのでございます。
ここの自動車御祓い所は,日本初らしいです。

なんだか,どっしりとした拝殿でした。それほど規模が大きい訳ではないですが,厳かな気分をかもし出していました。
そして,朔太郎が師事した白秋とあった杉もあります。
境内社もありました。
また,護国神社も東照宮の西にありました。---厩橋護国神社と称するとのことです。これはなんだか護国神社の歴史によって,一県一社のことが,高崎市との間で少し誘致のようなこともあって・・・今,前橋の此処はそのような名称らしいです・・・。

前橋公園が眺められ,良い位置でした。